柔らかい肌
すっかり夏になっちゃった。
トリュフォー特集からもう1年近く経ってしまったし、今日までの間もたくさんの映画を観てきたのだけど、やっぱり感じたことひとつひとつを留めておきたいから、思い出せる限りのことは綴っていきたいな。
というわけでトリュフォー特集の中日2本目、「柔らかい肌」。トリュフォーの長編4作目の映画。
今回上映されたトリュフォー作品の中で最もわかりやすく、濃密な大人の色香と官能の気配が漂うものだったとおもう。わかりやすいというのは、この主題が不倫と三角関係で、主人公の妻フランカが夫を手にかける理由も明確だから。彼女の感情は同じ女としてさもありなん、という感じ。
スリリングなサスペンス調のタッチで描かれているので胸騒ぎがする不安と緊張感が全体を貫いていて、最後までどきどきしながら観てた。
フランス映画特有の唐突な恋。この作品でのそれはとっても背徳的で、薄氷のように脆く不安定なものだけど、大人の恋愛だ、なんておもって妙な高揚感があった。主人公のペエール・ラシュネーも若い青年じゃないし、二人の空気感そのものが濃厚で艶かしいというか、不倫という関係もあるのだろうけど、その危険で妖しい雰囲気が空間に満ちているというか。尤も、トリュフォー自身はフランソワ・ペリエを主役に立てることを想定して脚本を作っていて、ピエールを演じたジャン・ドサイは代役だったそう。ペリエのスケジュールが空いてなかったからキャストの変更を余儀なくされたのだけど、トリュフォーはドサイとあまりうまくいかなくって、「欠点は男が魅力的でなかったこと」とまで言っている。びっくり。まあ、ドサイ扮するピエールはちょっと風采が上がらない男に見えたし、色気も足りなくて、彼自身にはあまり惹きつけられなかったのは確かなので、トリュフォーはそこが不満だったのかな。
一方の、フランソワーズ・ドルレアック扮する愛人ニコルの魅力は充分。トリュフォーが女性に重きを置いたからというのも一因ではあるだろうけど、何より彼女のどことなく冷ややかな美しさに目を奪われる。このフランソワーズ・ドルレアックはかの有名なカトリーヌ・ドヌーヴの実姉なのね。道理で華があって美しいはず。彼女たちは私が大好きな「ロシュフォールの恋人たち」でも双子の姉妹役として共演してる。詳しくはまた違う記事で書きたいとおもうけれど、豪華すぎてため息出ちゃうよね。25歳の若さで交通事故死しているというのが、美人薄命という言葉にぴったりと当てはまっていて痛ましいけれど。
ちなみにこの女性重視の傾向は、トリュフォー自身が大層好きだったというヒッチコック作品の影響を受けているようで、それ以外にも、先述のスリルを纏ったサスペンス調もヒッチコックを意識したとのこと。
最も官能的と言えるであろうベッドの上でストッキングを脱がすシーン。トリュフォーは脚フェチで脚のきれいな女優を好んだと聞いて、ものすごく納得した。この映画に限らず、彼の作品に出てくる女優は皆足が美しいものね。脚のアップもよく目にする気がするし。トリュフォーは主人公の男が恋人のためにストッキングを買いに行くところを撮影したかったらしく、閉店間際の店にピエールがストッキングを買いに行くシーンを撮ってる。トリュフォーが自分の嗜好を重ねたのか、ピエール自身が脚フェチであるかのような描写が多々あるのもおもしろくて、濃密な雰囲気を高めるのに一役買っている印象。
目線もこの作品では存分に演技として生きていて、たとえばカーテンの下から見えるニコルの、靴を履き替える足元を見つめるピエールの目線。見ている側からするといかにも下心を含んでいていやらしい男!とおもってしまうけれどね。ホテルの8階に上がるまでのエレベーターのシーンも印象的。台詞がなくって、何度も交わされる目線でお互いを意識する空気感がこちらに伝わってくる。このシーンは25カットも録っていて、本当は15秒で到着するのに5倍の75秒もかけてるのだとか。トリュフォーらしいこだわり。全体的にカット割りが細かくて、彼の作品の中でもカット数は多いほうなんだそう。
この映画の見所のひとつだとおもうのが、ピエールがニコルとの旅行を兼ねて出かけたランス講演。
夜霧の恋人たち
「トリュフォーの手紙」刊行記念特集の3日目。この特集、5日間で計11本のトリュフォー作品を上映するというもので、これがちょうど中日ね。
1本目は「夜霧の恋人たち」。
この作品は「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズの3作目で、主演はもちろんジャン=ピエール・レオー。「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズは1作目「大人は判ってくれない」を筆頭にトリュフォーの自伝とも言うべき作品群だけど、この「夜霧の恋人たち」は自伝的要素は薄いようで、ドイツの教養小説にならって「アントワーヌ・ドワネルの修行時代」として位置づけられてるそう。ただ、「修行」というよりはドタバタ劇というか、割ととっちらかったストーリーという印象。後述するけど、オチはいかにもフランス映画らしい反面、ちょっと中途半端。ハチャメチャな感じで展開しつつもある程度テンポよくまとまっていた話の流れから急に逸脱してるというか、脈絡がないようにおもえる。ただ、コメディタッチの、軽快で面白い作品ではあるので好き。
アントワーヌ・ドワネルが、失恋のショックから志願して入隊した陸軍を素行不良を理由に兵役不適格者として服役解除されるっていうのが物語の冒頭。その後ホテルのフロントや探偵になるのだけど、仕事は失敗続き。挙句探偵の仕事の最中に依頼人の妻と恋仲になっちゃって、潜入先の靴店を去ることになったり。
幼少期から家庭環境の影響もあって不良少年であったアントワーヌの落ちこぼれっぷりが、ジャン=ピエール・レオーという俳優のダメ男っぽさを巧く表現してる演技と重なって、コミカルで愛嬌のある描写になってるとおもう。中でもホテルのフロントとして働いてるときに私立探偵のアンリに騙されて、その依頼人を浮気中の妻の部屋に通してクビになっちゃうシーンは面白かった。ここでホテルのオーナーが、アンリからの謝礼のお札を二つにちぎって、片方を「退職金」、片方を「年末手当」と嘯くところまで洒落がきいてる。あと、ゴミ箱の中身をひっくり返しちゃうシーンとか、靴屋に潜入するための採用試験を受けるときの包装のシーンとか。包装のシーンはあまりの不器用さに笑った。探偵として雇われても、尾行が下手すぎて完全にバレてるし。本人は至って真面目にやってるんだけど、ミスが妙に間抜けていて、描き方がまた軽妙だから観ている側としてはクスッとなっちゃう。でもそんなアントワーヌがコミカルで憎めないんだよね。本人の真顔とのギャップも面白い。恋人がいるのに依頼人の妻にすっかりのぼせたり仕事でダメダメだったりと、危なっかしいし適当でいい加減なのに、本人は飄々と場当たり的に感じるまま、流されるままに生きてる。お気楽で自然体で力の入らないのほほんとした生き方。若さゆえなのか、無邪気で後先考えない生き方。彼の行動にはまるで感情移入できないのだけど、あんな生き方もアリかー、とおもう。自分がダメダメだということを歯牙にもかけていないような、というか気づいてすらいないような表情が、他人を気にせず、ストレスらしいストレスも抱えずに生きていることを語ってる。自分に素直に、マイペースに生きるという点でアントワーヌは羨ましい。苦労を苦労と感じず、そしてあんなに情けない姿でも誰かに愛されてるのだから。
この終盤の朝のシーン好き。楽しそうに筆談を交わして、最後はアントワーヌが栓抜きをクリスティーヌの指に嵌めてみせるの。筆談の内容は観衆には明かされないけれど、それなのに、それだからこそ、その幸せそうな様子が強調されてる。画面越しに伝わるその幸せぶりに、トリュフォーの描写の細やかさを改めて感じる場面。
あと印象に残っているのは、アントワーヌが鏡に向かって靴屋のオーナーの妻ジャビエンヌと恋人のクリスティーヌ、それに自分の名前を延々と呟くシーン。それと英会話の練習をしてる様子も。いかにも恋をした若者らしい、なんとなくあるあると頷きたくなるような姿が如実に彼の状態を表していて、巧く演出しているなーとおもう。
さて、この作品も例に漏れずいろんな小ネタが散りばめられているのだけど、中でも興味深かったのが、失恋のショックで志願して兵役につく設定がトリュフォーの体験に基づいているってやつ。除隊までの経緯は違っていて、トリュフォーは第一次インドシナ戦争に行くのが嫌で脱走して投獄されるのだけど、極度の情緒不安定として精神病院に入院することで除隊したらしい。
アントワーヌがジャビエンヌに「はい、マダム」と返事するところを「はい、ムッシュー」と言い間違えてしまうシーンもトリュフォー実体験のエピソード。これはありそうなネタ。
そして面白いのが作中でアントワーヌが読んでる本。獄中で読んでるのはトリュフォー自身が敬愛していたというかの有名なバルザックの「谷間の百合」。ホテルの夜番をしながら読んでいる本はウィリアム・アイリッシュの「暗闇へのワルツ」で、次回作「暗くなるまでこの恋を」の原作だそう。「暗くなるまでこの恋を」観たい。あとホテルの名前「リュテシア」はこの特集でも上映された「柔らかい肌」で撮影に使ったホテルの名前で、そういえばそんな名前だったなーとおもいだした。
これはラストの一場面なのだけど、このあたりがとっちらかっててわかりにくく、個人的にはイマイチ。まず、修理工になったアントワーヌを、両親の外出中にわざとテレビを壊したクリスティーヌが呼び出し、二人が結ばれるという一連の流れに戸惑って、把握するのに時間差があった。この点は私の理解力の乏しさにも問題があるとは思うのだけど、一番意味がわからなかったのが途中からクリスティーヌを尾行する男。このラストでクリスティーヌに告白をして、本物のストーカーだったことが発覚するのだけど、もっと危険な人物じゃないかとずっとヒヤヒヤしてた。音楽も怪しげだし、何かクリスティーヌの身が脅かされることでも起こるのかとおもって怖かったのだけど、こうなると正直に言って登場する意味がわからない。おかげでエンディングが非常に中途半端なものになってしまった感じで後味が悪かった。個人的な感情は別にして解釈をすれば、このドタバタして奇妙ではあるものの一人の人間の生活に潜む陰ともとれるけれど。人生というか生活って、必ずどこかには陰があって、そして好意にしろ悪意にしろ、いつ、どこから向けられるかわからない部分があるとおもう。思いもかけない人から好かれていたり、逆に嫌われていたり。フランス映画は往々にしてその陰もきっちり描き出しているので感心してしまうのだけど、もしかしてこの作品におけるそれがこの男の存在なのかなーと。あくまでも個人の解釈だし、観たままの感想は「意味がわからない」だったので後付けになってしまうのだけども。
アントワーヌの青春時代を、頁をめくるように綴ったこの作品。「よくわからないけど好き」というのが率直な評価かも。
突然炎のごとく
「恋のエチュード」に続けて書きたかったのだけど長すぎたので分けるね。
「トリュフォーの手紙」刊行記念特集の2日目、2本目は「突然炎のごとく」。
原題はJules et Jim(ジュールとジム)で、「恋のエチュード」と同じくアンリ=ピエール・ロシェの同名の原作を映画化したもの。いくつかのエピソードや台詞は違うロシェの作品から抜き出しているそうだけど。製作・公開されたのはこちらの方が10年近く早いけれど、一人の女性と二人の男性の三角関係を描いていて「恋のエチュード」とは対照をなす、いわば表裏一体の作品と言えるかとおもう。
恥ずかしながら観に行った当時は「恋のエチュード」とこの「突然炎のごとく」が同一作家の著作をもとにした映画文学だということも、前述の背景から二本立てとして組まれてることも知らなかった。前々から興味はあったもののトリュフォー映画はすべて初見で知識も皆無、とにかくこの機会に観れるだけ観ようという気持ちだけで全日足を運んだので当然ではあるのだけど。二本立ての醍醐味のひとつは、どの作品が組み合わされているかというところにあるのだと実感した例。
で、まず映画全体について。
面白いのが、「恋のエチュード」と原作者も監督も同じだというのに受けた印象が全然違ったということ。それはストーリーの違い以外にいくつか理由があるとおもうのだけど、第一に、奔放な女性とそれに翻弄される男性たちっていう構図とか舞台設定なんかを抜きにしても、この映画、とってもフランスらしいとおもうのね。それは情死とかフランス映画でいう「情熱犯罪」的要素が含まれているからだけじゃなく、雰囲気というか、感覚的なものからしていかにもフランスらしい。もっと言えば「フランス映画らしい」ので、観た感想としては映画文学だとはおもわなかったなー。原作の文学作品が存在する匂いがなく、この映画のために一から脚本を書いたのではという感じ。比べて「恋のエチュード」は、ストーリーから演出に至るまで英米文学的・古典的な印象を受けた。
どちらが好きかと問われれば、私は映画作品としては「突然炎のごとく」が断然好き。
一般的にも、映画文学として至上の完成度を誇る傑作と評価されてるみたいね。

この作品はフランス以外の各国でも大きな反響があったようだけど、その理由の最たるものはジャンヌ・モロー演じるカトリーヌ。奔放かつ開放的な彼女のキャラクターが多くの女性の共感を呼んで、特に当時女性解放運動が活発化しつつあったアメリカとイギリスでは、フランス映画としては異例のヒットを記録したのだとか。確かに英米でフランス映画がウケるイメージはないし、これってすごいことなのかな。トリュフォーのところにも、「カトリーヌはわたしです」という内容の手紙が世界中から届いたそう。ただし、トリュフォー自身は「女性映画」のレッテルを貼られて政治的な文脈で評価されることや、登場人物と自分とを短絡的に結びつける自己愛的な映画の見方に対して否定的みたい。
ただ確かにジャンヌ・モローは気まぐれかつ奔放な女性の役がぴったりだった。個人的なカトリーヌの見方としては、あの無邪気さはとても魅力的だとおもうし、あれほど奔放で開放的でありながら、我儘というより憎めない印象を受けた。あえてトリュフォーの持論に逆らって自分にあてはめて考えるなら、私はあんなふうにはなれないなー。そういう意味では、彼女の姿は実際にはああいうふうに生きられないけれど、あれくらい自由になってみたい、って感じでちょっと羨ましくなってしまう人物像ではあるのかもしれない。そこがウケた一面も可能性としてはあるのかもね。ただ一方で即物的・刹那的に見えてしまうのも事実だとおもう。気まぐれで、愛されていたいとか追いかけてほしいとかおもうのは女性の性なのかなー。カトリーヌはジュール、ジム以外にもアルベールという愛人を持っているし。そのせいで瞬間的にしか人を愛せないと判断したジムが失望して、昔の恋人のもとへ去るのだけど、彼が自分から離れるのもカトリーヌは嫌がるし。本当に奔放で自分勝手に見えるけれど、それが女性の性だとしたら、カトリーヌは女性らしい欲求を持っていて、かつそれにとっても素直なのだと言えそう。それとカトリーヌは、ジュールとの間に一子をもうけるけれど、母親としての幸せを得ても、決して一人の女としての幸せを求めることも捨てないよね。これはフランス映画に登場する女性には大概言えることだけど。
そんなカトリーヌの奔放な性格を象徴するようなシーンがいくつか。中でも好きなのはこの橋で競争するシーン。躍動感と、大人なのに子どものような、男女の純粋な友情が表出した無邪気さが好い。
一番象徴的なシーンとして挙げるなら、やっぱりカトリーヌがセーヌ川に飛び込むシーンかな。インパクトもあるし、3人でお芝居を観に行った帰りにジュールとジムが文学談義を始めたらいきなりっていうあの一連の流れも好き。あとは、小さいけれど下に載せた写真みたいに、カトリーヌが自分の顔に髯を描いて歩行者をからかう場面なんかもあるね。こういう軽妙さが前半は目立ってて、トリュフォーらしくて好きだなー。
ちなみにセーヌ川に飛び込むシーンについて。スタントの女性がやりたがらなかったので、なんとジャンヌ・モロー自身が飛び込んだんだとか。セーヌ川の水が汚くって喉をやられてしまったという、体を張った演技には感心するしかないけど、スタントマンがおそらくは危険性以外の理由でやりたくないって拒否することってできるのかしら。
もう一人、ジュールにも焦点を当てたい。この物語は彼こそが主人公で、作者アンリ=ピエール・ロシェ自身が投影されているとおもわれるので。
彼は本当にカトリーヌを愛していたけれど、カトリーヌの奔放な性格は当然彼の前でも変わらず、結婚して子どもを授かってもその仲は冷え込んでいく。カトリーヌはジムに心を移し、それを悟ったジュールはもちろん苦悩する。
そこで彼が出した答えが、妻をジムに譲って3人で共同生活をしようというもの。カトリーヌを自分の傍に繋ぎ留めたい一心で、そのために彼女を自分の友人と結びつけようというのは、頭では理解できるけれどとても追いつけない心理だなー。自分の一番親しい友人と妻が一つ屋根の下で仲睦まじく暮らすのを傍で見るって、精神的にかなりつらいものがあるとおもうのだけど、完全に一方的な思慕なのに自分を犠牲にしてまでも一緒にいたいと願う愛のかたちっていうのが興味深い。心底愛してはいるのだろうけれど、ここまでくると、カトリーヌに向ける愛っていうよりは自己の欲求を満たすのが目的になっているような気もするし。彼はカトリーヌに文字通り心を奪われてるんだろな。呪縛とも言える領域で。
ただやっぱり、実際3人で共同生活をしていると、苦悩したり葛藤したりすることはあって。それを巧妙に描き出してるとおもったのが、家の中を横から映したカット。1階で本を読むジュールを捉えたカメラが、そのまま2階でじゃれあうジムとカトリーヌを映し出す。そして再び1階にカメラアングルがスライドすると、ジュールは落ち着かなさげに部屋を歩き回っている。
この演出、素晴らしいとおもう。ジュールの苦悩の深さを直接的に表現しなくても、彼が冷静でいられないことがよくわかる。どこか軽妙なカットで見ていて面白いのに、きちんと画としてジュールが落ち着かず悩んでる様子を表現できてる。トリュフォーの技量の高さは、こういうところにあるような気がするのね。あと彼に限らないけど、演出は扇情的なのじゃなく、やっぱりこういうさりげなく巧妙なのが好き。
それにしても、自分から申し出たからというのはあるにせよ、ジュールのジムに対する友人としての愛情は変わらないんだよね。悩んだり苦しんだりすることはあるけれど、ジムに不満をぶつけることはなく、かといって憎悪を押し殺してるようなところもなく、自然に慕ってるさまが最後まで一貫して描かれていたのがとても心に残った。
カトリーヌへの愛とジムへの愛、二つの異なる愛情を持ち続けたジュールにとって、あの結末は壮絶な哀しみと苦しみを伴うものであったとおもうけれど、同時に、だからこそほっとした部分もあったのでは、というのが観終わった直後に真っ先に浮かんだ感想だった。愛していた二人の存在を失ったことで、心の平和を得た部分もあるのだろうなと。ただ、それが彼の人生における幸福と言えるかというとそうじゃないのが哀しいけれど。心の平和が人生の幸福とは限らない、というのは「恋のエチュード」での幕切れのナレーションの呟きで、ここがこの2作品の共通するオチ。「恋のエチュード」でのクロードも、一人が死に、一人が結婚して去ったことで、苦しみも大きかった三角関係の恋愛から解放されたわけだけど、それは人生の幸福とは言えないんだよね。この2作品を同日に観る意味は、この主題とオチの共通性にあるに違いなくって、実際今おもいかえせばより一層味わい深く、感銘深い。
ラストに関して、演出的な観点からも個人的な意見を加えていきたいとおもうのだけど、その前にいくつか他に好きなシーンを挙げるね。
まずは、ジュールとジムがカトリーヌに恋をするきっかけになった、アドリア海の島にある美術公園で彫刻の女を見るシーンがなかなか好き。ここは美しい文学的な場面だよね。
それからジュールとカトリーヌの河畔の山小屋の中で、カトリーヌが「つむじ風」というシャンソンを歌うシーン。これ、曲自体も好きなのだけど、撮影中にボリス・バシアクが遊びでつくったものだそうで、それを聞いたトリュフォーが即興で映画に取り入れたとのことだった。
さて、件のエンディング。
このロケ地、景観からして素晴らしいよね。最近のものかどうかはわからないけれど、カラー写真でおそらくここと同じ場所だとおもわれる風景を撮ったものを見かけたのだけど、途中で切れてる橋はなくなっちゃってた。残念。
で、この映画の結末としてはこの切れた橋からカトリーヌがジムを乗せて運転した車が転落して、二人とも死んでしまうという悲劇的なものなのだけど、このときのカメラアングルがお見事。横からのアングルで車がこの橋に走ってきてさしかかる場面の、だんだん終焉に近づいて高まっていく緊張感には息を詰めずにはいられない。直後の転落シーンでは前から撮ったアングルになるのだけど、切れた橋から垂直に落ちてくるのも水飛沫が上がるのもありありと見えてクライマックス感がすごい。
そしてこのシーンを観て、改めて「突然炎のごとく」っていう邦題の秀逸さを確認したなー。文字通り突発的・衝動的に起こったように見えるものこれ。カトリーヌ本人は事前から考えていたのかもしれないけれど、ジュールとジムからすれば不意打ちすぎるよね。あとこの邦題、カトリーヌ本人の奔放かつ気儘な性格も如実に表してるとおもう。
そしてこのクライマックスの何が佳いって、やっぱりこのあっけなさだとおもうのね。
往年のフランス映画ってほとんどそうだとおもうのだけど、エンディングに至る流れって起伏に富んだ展開じゃなく、日常風景が描かれていたり、どこか倦怠感を伴うようなぐだぐだした流れだったりする。ハリウッド好きが観たらつまらないとおもいそうな、あるいはハリウッド好きに限らず派手さ、わかりやすさを求める観客なら寝てしまいそうな感じの。そして迎えるクライマックスも一瞬で終わる。人もあっけなく死ぬ。そもそもクライマックスというほどの特別な何かや盛り上がりすらなかったりする。
でもここに、リアリティがあるのだとおもう。フランス映画は白黒はっきりしないというか、善と悪にしてもそうだけれど、一概にハッピーエンドともバッドエンドとも言えないこともあるから、観る人によってはもやもやするエンディングだとおもう。だけど、そこにリアリティがあるのだとおもう。フランス映画はある程度合理的で、ご都合主義の色はあまり出ていないから、余計そうおもう。
何気ない日常風景、会話、そういう中にさりげなく遊び心的な巧みな演出が紛れているのがまた佳くて、そのさりげない演出の中でどんなふうに俳優たちが自分の演技で人物の心情や性格を表現し伝えるのかを見るのがまた楽しくて。
私はそんなフランス映画が、心地よくて好き。
恋のエチュード
前回の記事、三作品も長々と書き綴ったおかげで年越しちゃった。随分遅くなってしまったけどハッピーニューイヤー。
今度の映画は、「トリュフォーの手紙」刊行記念特集の2日目、「恋のエチュード」「突然炎のごとく」。
「突然炎のごとく」はさらっとあらすじを読んだことがあったのだけど、「恋のエチュード」に関しては1人の男と姉妹の三角関係を描いた恋愛映画というほかは予備知識なし。「恋のエチュード」から観ることになったのでどんな物語なのか多少どきどきしつつ、文芸坐に足を運んだ。
ものすごく文学的な香りがするな、とおもってたら、案の定アンリ=ピエール・ロシェという作家の「二人の英国女性と大陸」っていう原作があるみたい。フランス映画にしちゃ珍しく、小説を映画化したっていうのがストレートに伝わってくる作品だった。やたら感傷的で、劇的な描写・演出が多かったのはきっとそのせいなんだろな。ナレーションも小説の地の文を引用してるようだったし。ちなみにこのナレーションはトリュフォー自身によるもの。
結論から言うと、好きな映画じゃなかった。
まず、文学的な色が濃い作品が苦手。あの感傷的でドロドロした雰囲気が苦手。シェイクスピアとか世界的名作の映画化作品ですら、積極的に観たいとはおもえないんだよね。嫌いっていうよりも苦手っていう表現がしっくりくる。物語の起伏が激しくて、扇情的・劇的な演出が多いのがあまり好きになれないのかもしれない。特にえぐいシーンは、文字で読むぶんには大して気にならなくても、映像として見るのはキツい。
逆にテンポがいい映画だとか、題材・内容の重さの割にそれを感じさせない、しかし見事にそのメッセージを内包してる映画だとか、淡々としつつも深みを感じさせる映画なんかは好きだし、巧いとおもう。何気ない演出の中で、表情や仕草、台詞まわし、醸し出す雰囲気でどれだけ表現できているのか、何を伝えているのか、それが俳優の演技を観る醍醐味だとおもっているし。
文学色の強い作品を観るなら舞台かな。あとは、ファンタジー作品は面白くて人間にCG多用してなければ割と何でも観れるなー。といっても、今まで観た中で好きだと言えるのはスター・ウォーズとロード・オブ・ザ・リングくらいだけど。
「恋のエチュード」の話に戻すね。
個人的にこの映画の一番受け付けなかったところは、性描写の生々しさ。特に初夜の血が流れる描写と、ブラウン姉妹の妹ミュリエルの幼少期の性体験の告白のシーンは、イケナイものを見てる気分でいたたまれなかったし、なかなか衝撃的だった。さすがにこんなシーン、今まで映画で見たことない。というか、これこそ文字で読むぶんには問題ないけど映像として見るのはダメだなとおもうシーン。私は映画に関して他人の評価はそれほど気にならないタイプなのだけど、「恋のエチュード」のエピソードを軽く調べてみたら、本国フランスでもこの作品は不評だったらしいねー。パリで公開したとき、オリジナル版は132分なのに、映画が不評だったから劇場側が要請を出して、20分ほどカットした118分になったのだそう。特に前述の流血シーンには抗議が殺到して、まるまるカットすることになったとか。比較的性に奔放なイメージのあるフランスだけど、さすがにそういうのはダメなんだね。
でもおもえば確かに、フランス映画では高確率で女優が脱いで胸晒すし、部屋で下着姿なんてあたりまえだけど、そこにいやらしさはないんだよね。むしろ美しい。だから観ていてもいたたまれなさとか感じない。それと比べたら、今回の性描写は異質。ショッキングで生々しくて痛々しくてえぐいし、正直美しいとはとても言えない。フランス人にウケが悪いのも当然かなとおもう。もちろん性が美しいだけのものじゃないことは理解しているし、この映画から伝わる、恋愛の歓喜や快楽と同時に存在する苦悩、痛み、苦しみを表現するという点ではこういう性描写はインパクトもあってとても効果的、必要ですらあったかもしれないけど、やっぱり受け手の一人としては少々キツかったかな。
どうやら私の評価は当時の世間一般の評価とほぼ同じのよう。アメリカでも、全体の流れをスムーズにするためとはいえかなりカットした106分版での公開だったようだし。
トリュフォー自身は、不評の原因を娘がロウソクを持って暗い階段を昇るシーンに象徴されるような、あまりにも感傷的な演出にあると判断したらしい。まあ演出というか表現の仕方の問題も、書いたとおり個人的にはあるよね。庭でテニスをしてて、ミュリエルがクロードの姿をダブらせて眩暈を起こすシーンとか、姉のアンにクロードとの関係を告白されてショックを受けるシーンなんかは、この映画で演出的に気に入らなかったシーンのひとつ。
だけどやっぱり、一番の原因は性描写の問題だとおもう。
ちなみにトリュフォーはあくまで観客があってこその映画だと考えていたそうで、この興行的な失敗は苦い経験だったらしい。ただ、その失敗が前述の理由にあると考えたものだから、後にこの「恋のエチュード」と「アデルの恋の物語」、「緑色の部屋」を自ら「ロウソクの3部作」と呼んで撮り直しを図ってるのね。あと、前回レビューを書いた「アメリカの夜」には女優の顔を照らす照明をカメラから見えない位置に備え付けた特殊なロウソクの小道具が登場しているんだとか。
だけどやっぱり、失敗の理由は性描写の問題だとおもう。
この映画の超簡略的なあらすじを改めて。オーギュスト・ロダンの彫刻が好きなアン、彼女の3歳年下で眼を病んでいるミュリエルというブラウン姉妹と、アンと知り合って彼女の実家があるイギリスに渡った青年クロード。クロードは姉妹の両方を愛してしまい、姉妹のほうも2人ともクロードを愛するようになる、というお話。
ブラウン姉妹を演じたキカ・マーカムとステーシー・テンデターはイギリス人。キカ・マーカムは出演作もほかに何本かあるみたいだけど、ミュリエルを演じたステーシー・テンデターは出演作は知られている限りこの1本のみ、しかも2008年に59歳で亡くなってるのね。ミュリエルの役がとても合っていて、印象に残っているだけに残念。彼女たち扮するブラウン姉妹は外貌、内面ともにそれぞれ異なった魅力を持っていて、この二人の女優はその個性にぴったりの好演だったのでナイスキャスティングだとおもう。具体的なキャラクターを一言でいうと、アンは華やかで奔放でありながらも妹思いの優しい姉、ミュリエルは繊細で儚げでありながらも芯の強い妹、という感じ。

アンははじめ、イギリスに渡ってきたクロードをしきりにミュリエルと結びつけようとするのだけど、クロードもミュリエルに惹きつけられたようだったし、ミュリエルもだんだんその気になっていっていたから、ここは妹思いの優しい部分が出ていたようにおもう。クロードと関係を持ったことについては結構妹への罪悪感があったようだし。ただ、クロードとミュリエルの二人が結局結ばれることなく別れてからは、パリに研修に行った折に今度は自分がクロードと関係を持ち、その関係が終わってからも奔放に恋愛を重ねるあたり、さっぱりと明るく自由気儘な性格ゆえかともおもったり。自分のペースで恋愛をするタイプで、クロードとの付き合いもどちらかというと振り回す側であったように見える。そしてそんな人生の果てに、結核で死に至るのだけど、死の直前まで医者を呼ばなかったり、病気であることを悟った時点で婚約関係を解消したりと、ここでも自分の意志を第一に行動するアン。この医者を呼ばないアンは、「嵐が丘」の作者エミリ・ブロンテをモデルにしているそうで、余談ながらエミリは死ぬ2時間前まで医者を呼ぶことを許さなかったとか。
一方ミュリエルは、とにかく壊れそうなほどナイーブで色々と脆そうな感じ。陰に咲く菫のごとく面立ちや佇まいも儚げで、このあたりは演じたステーシー・テンデター自身が強い印象を残したとおもう。性格だけでなく眼の病気や幼少期の性体験等の影響も感じさせる、どこか深い影を負ったような憂いを帯びた表情が秀逸。彼女の場合はその繊細な性格から、クロードとの恋愛の苦悩も姉より一層大きかったと見えて、件の性体験を含めたその告白、感情の吐露は壮絶。姉にクロードとの関係を告げられたときの姿は痛々しいほどだったし。精神の清らかさゆえに、それに相反する背徳的な快楽や恋愛の苦悩に翻弄された女の子だったのかなとおもう。
ただ、そんな中にも二度にわたってクロードの愛を拒絶し、教師となって平凡な結婚をするというところに、彼女の芯の強い生き様が感じられるような気がする。
そしてクロード。お馴染みのジャン=ピエール・レオー。前の記事にも書いたけど、彼はダメ男がとにかく合う。フランス映画は結構男性の女々しさみたいなものを描き出すのが多いし巧いとおもうのだけど、それが愛ゆえっていうのがはっきりしてるから、人間味もリアリティもあって見ていて憎めないんだよね。ジャン=ピエール・レオーが演じる男たちっていうのはまさにそんな感じで、どこかユーモラスで可愛げのあるバカで、憎めない。このクロードという役柄も、二人の女性をめぐって揺れ動く優柔不断な感じが見事にはまって存在感がしっかり出てる。その行動にはまったく共感できないのだけど、男の性としてはリアリティがあって納得させられる。
そして彼の無表情のうちに秘めた陰鬱さが印象的。物語のラストは、年をとってからアンとの思い出のあるロダン美術館にクロードがやってくる場面なのだけど、ガラス越しに見た自分の姿に「老人のようだ」と呟くシーンは圧巻。一人の女性に向き合って真摯な愛に結ばれることなく青春を終えたことに気づいて呆然とする表情、佇まいに脱帽した。青春の儚さを無常感たっぷりに描き出すこのエンディングは本当に素晴らしいとおもう。
この作品、やはりどうにも好みじゃないのだけど、見事だなーと感嘆したところは実はたくさんあって。
全体的なストーリーはいまいちだというのが正直な感想だけど、前述のとおりラストは素晴らしかったし、青春の朽ちやすさ、恋愛の苦悩や痛みといった部分は胸をうつものがあった。移ろいやすく繊細な男女の感情が時の流れとともに巧く表現されてた。
映像的によかったのは何よりその美しさ。古い映画だというのもあるのだろうけど、どこかぼやけたような感じも素敵だった。短い間隔でのフェイドアウトの多用がリズミカルで文学的な香りに効果を添えているし、ナレーションも映画文学としての豊かな味と余韻を醸し出していたし。
あとはやっぱり、美術や衣装がクラシカルで佳いなー。小道具も洒落てて効いてるし、音楽も好き。
そして何よりあのブラウン姉妹の家がある海辺の風景の素晴らしさ。ウェールズという設定だけど、トリュフォーが「華氏451」での苦労以来イギリスに滞在するのを嫌がったものだから、ほとんどがフランスのノルマンディーで撮影されたらしい。ノルマンディーにあんなところがあるなんて、是非行ってみたいなー。
「恋のエチュード」、好きではないけれど、文学的な芳醇な味わいのある作品だと感じた。
あこがれ/大人は判ってくれない/アメリカの夜
ご無沙汰。といっても実は以前書いたものを加筆修正しているので放置してたわけじゃないよー。あとで思いついたことを追加せずにはいられないので時々覗いてくださればとおもう。
この1ヵ月余りの間にいくつか展示も見に行ったのだけどそれは割愛。
今日からしばらくつらつらと書いていきたいとおもうのは新文芸坐で11月23日から28日まで上映されていたフランソワ・トリュフォーの映画について。当該映画の翻訳も手がけた山田宏一さんの著作「トリュフォーの手紙」刊行記念の特集。
初日には氏のトークショーも行われていたのだけど、学校の授業時間との兼ね合いもあって私は拝聴できず。著作も買わなかったけど、映画は存分に楽しんだ。恥ずかしながらトリュフォー作品はこれが初見。
11月23日、初日。この日は「あこがれ」「大人は判ってくれない」「アメリカの夜」を上映。
「あこがれ」が短編映画とはいえ、1日3本なんてさすがの新文芸坐もオールナイト以外ではないんじゃないかしら。
第一作目は「あこがれ」。モーリス・ポンスの同名の小説が原作なのね。短編ながら完成度の高さと表現力はさすが巨匠トリュフォーといった感じ。
このベルナデッドが自転車に乗るシーンは清々しくて好きだった。森の中のシーンやテニスコートのシーンもそうなのだけど、この作品はモノクロ映画なのに光とか風とかをすごく視覚的に感じられる。どの場面も朝の空気のような爽やかさがある。
ベルナデッドに淡い恋心を寄せる少年たち。これ、一人なんじゃなく複数なのがいいのね。彼らの幼い遊びやふざけあいだったり他愛もない悪戯だったりっていうのが、作品全体を貫く、清潔な白をイメージさせる純真さだとか爽やかさを汚すことなく、だけど一滴の悪意の黒を落とし込んでる。そのバランスが絶妙でよいなと。
なによりこの作品を観てると、少年たちの瑞々しくて甘酸っぱい思い出を共有するようだった。
ちなみに後日少し調べてみたら、この舞台裏とか演出の裏話とかはなかなか興味深くて面白かった。テニスコートで「水を撒く人が逆に水を撒かれる」というギャグがルイ・リュミエールの『庭師』からの再現だとか、子どもがジャン・ドラノワ監督の『首輪のない犬』の主題歌を口ずさみながらそのポスターを破るシーンがあるけど、その映画の脚本を担当したジャン・オーランシュとピエール・ボストは、批評家時代のトリュフォーが毛嫌いしていたコンビなんだとかね。
とっても味わい深い短編でよかった。
2作目、「大人は判ってくれない」。トリュフォー初の長編かつ自伝的作品にしてフランス映画の名作1位に挙げてる人がいるくらいの傑作。原題の「Les Quatre Cents Coups」(あえて直訳すれば「400回の殴打、打撃」)は、仏語の慣用句「faire les quatre cents coups」(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来するとのこと。
主人公の少年アントワーヌ・ドワネルはその後も何度かトリュフォー作品に登場して、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化されてるね。そんなドワネル少年を演じたのが、かの有名なジャン=ピエール・レオー。のちにフランス・ヌーヴェルヴァーグを代表する俳優となる彼は当時13歳。脚本家の父、女優の母の間に生まれた彼は、この歳にして自らの強い意志でオーディションを受けたそうで、トリュフォー本人から「誰よりも本気だった」と評価されて主役に抜擢。以後、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズのドワネル少年は全部彼が演じてるんだよねー。幼少期から大人になるまで、何十年にもわたって。トリュフォーはきっと、お気に入りの彼の成長にも合わせてこのシリーズを作ったんだろな。一人の俳優が一人の人間の少年時代から青年時代までを俳優自身の年齢と合わせて演じるって、考えてみるとすごいなーとおもう。トリュフォーの死の前からはトリュフォーとゴダールとの板挟みになって苦しんだようだけど、それだけヌーヴェルヴァーグの巨匠たちから愛されていたっていう超実力派俳優なんだよね。
大人の無理解とアントワーヌの苦痛や葛藤が見えるけれど、随所にコミカルな演出があって映画全体として決して重苦しくない。テンポもいいし。その中に問題を内包しているあたりが巧妙と言えるとおもう。
教室のシーン。このあたりコメディタッチがよく生かされてるとおもう。子どもながらクラスメートの演技がうまい。授業風景もさることながら、学校がらみのシーンで、先生引率のもと校外をランニングするところが本当に面白かった。一人二人と生徒がこっそり列を抜け出していくところ、笑っちゃった。他の客席からも笑い声漏れてたなー。そして親友らしき男の子がいい味出してる。一緒に不良めいたことをしつつも助け舟を出そうとするところなんか悪ガキ二人組って感じ。最後は彼の提案から端を発した窃盗のおかげでドワネル少年が少年院に送られてしまうので、なんとなく気まずげな関係になってしまって、少年院にきた親友くんの表情はどこかしら無関心を装っている雰囲気すらあったけども。この空気、幼い頃にできてしまった若干のわだかまりみたいなものがうまく表現されていたような気がする。
まあなんといっても印象的だったのがラストの海のシーン。ひたすら無我夢中で走るドワネル少年の眼前に悠然と広がる灰色の広大な海。ちっぽけな少年という存在と巨大な海という存在の対比が絶妙。ドワネル少年に迫るカメラの効果、何より振り返った彼の表情が秀逸。無言のうちにも、現状をどうすることもできない無力感とか、大人の無理解に対するやるせなさ、魂の悲痛な叫びや慟哭とかいったものが、その面持ちと海の低い波音によって痛いほどにひしひしと伝わってくる。この映画がモノクロであることの価値が最もよく現れたシーンでもあったとおもう。すべてがモノクロの世界でひとりぼっちの少年の物語が、怒涛のように集束して、突き抜けるような虚無感にも似た余韻を残すエンディングだった。
長くなっちゃうけど続けるね。
三作目はこれ、「映画に愛をこめて アメリカの夜」。このタイトルは日本初公開時のもので、フランス語の現代は“La Nuit américaine”、和訳すると「アメリカの夜」になるんだそう。フランス映画だのに「アメリカの夜」なので、てっきりアメリカで撮った作品か何かだとおもってたら、カメラのレンズに暖色系の光を遮断するフィルターをかけて夜のシーンを昼間に撮る「擬似夜景」のことを指す業界用語なんだとか。モノクロ時代に開発されハリウッドから広まった撮影スタイルだからこう呼ぶらしいけど、英語では “day for night” と呼ぶので、この映画の英語タイトルも“Day for Night”になってるとのこと。
で、この映画、「映画の撮影風景を撮った映画」なんだよね。これが個人的に新しくて面白かった。ドキュメンタリーじゃないんだけど、本当に当時の映画の撮影風景の一端が見れるし、舞台裏を覗いてるようなというか、キャスト、スタッフ、その他関係者を含めた映画人たちの現場での姿、生き様を見ている感じ。映画撮影の進行を軸にしつつ監督の苦悩だとか撮影現場での人間関係だとかが現実感たっぷりに描かれてる。なんだか新しいジャンルのものを見ている感じがした。こんな映画を撮るとはさすが巨匠トリュフォーだとおもうけど、そんな彼は「突然炎のごとく」でジャンヌ・モローが「誰か、あたしの背中をかいてくれない?」って台詞を言ったとき、小道具係が本当に背中をかいてやったというハプニングがあったことから映画作りの現場を映画にするというアイデアをおもいついたそう。トリュフォーは印象に残った言葉や体験をメモに書き留めて残しておく習慣があったらしく、この作品でもそういった小ネタが存分に生かされてるみたい。ちなみに今回の特集で「突然炎のごとく」も観ることができて、とっても幸運だった。
この猫を使ったシーンで、猫がおもいどおりに動いてくれなくて何度も撮影をやりなおすところ、ユーモラスで好き。これもトリュフォーの「柔らかい肌」での体験からきているそう。その「柔らかい肌」も今回の特集で観たのだけど、確かに猫が登場する場面があったなーとおもいだした。
個性豊かな人物たちの人間関係を多角度的に描いてるだけに、誰が中心とは言い切れないのだけど、作中劇のヒロイン役だったジュリー・ベーカーを演じてたこの人が主演女優なのかな。イギリス人女優のジャクリーン・ビセット。作中でもハリウッドから来仏した主演女優っていう設定だった。まあ彼女自身はイングランド人とフランス人のハーフだそうで、フランス語も流暢に話せるのでフランス映画への出演も多いとのことだけど。
彼女を観ていて印象的だったのが瞳。すごくきれい。少し緑がかって見えるんだけど、気のせいかな。そこはかとなく哀愁を帯びてて強く惹かれたなー。役どころがノイローゼ気味の女優だったんだけど、あの瞳を見ただけでナイスキャスティングだなとおもってしまったくらい。表情も物憂げだし全体的に儚さが醸し出されてて絶妙だった。演技とおもわせないほど素晴らしかった、本当に。
余談ながら、とっても美しい女優さんだとおもうのだけれど、お歳を召したいまも独身を貫いているのだそう。ちょっとびっくり。
そしてこの映画にも出てくる、ジャン=ピエール・レオー。この映画では作中劇でジュリーが演じるヒロインの婚約者という、主要人物的な役柄。この頃の彼は本当に若くて美男子というか、役柄のせいもあって貴公子然としてる。つけ加えると、個人的に彼の顔立ちは典型的なフランス人青年って感じがするよー。
ちなみに映画の冒頭が、地下鉄出口から出てきたジャン=ピエール・レオー演じる青年が広場を歩いていっていきなり男に平手打ちを食らわすというちょっと驚いてしまうような映像なんだけれど、それはもちろん撮影風景で、NGが出るたびに平手打ちの演技が繰り返されるというコミカルな演出があってしょっぱなから面白いとおもった。
それはさておき、ジャン=ピエール・レオーについて私が一番主張したいことは、「ちょっと情けない青年役」がとてつもなく合うということ。今回の特集で観る機会を得た「夜霧の恋人」(アントワーヌ・ドワネル少年の冒険シリーズの中の一作)や「恋のエチュード」でもそうなのだけど、優柔不断だったり失敗が多かったり運が悪かったりっていう感じの男の役がものすごくしっくりくる。それが彼自身の素の性格から醸し出されるものなのか、脚本がそういう設定になっていてそれを忠実に演じてるのかはわからないけれど、とにかくハマってる。美形なだけにそのギャップがまた面白い。この作品でも、スタッフの女性と恋仲になって、嫉妬まるだしにするくらい入れ込んでたのにあっさり浮気されて、不貞腐れた挙句既婚者のジュリーに甘えてその気になっちゃうダメ男っぷり。その貴公子然とした容貌と相まって、プライド高いくせに繊細な青臭いお坊ちゃんぽさがよく出てた。もちろん別の面もたくさんあるんだろうし、見てみたいとおもうけども。
何よりも可笑しかったのが、このヴァレンティナ・コルテーゼ扮するセヴリーヌ。彼女がお芝居をするシーン、本当にツボだった。台詞を覚えられないところもくすりとさせられたけど、ドアと戸棚を間違えるNG連発のくだりには笑いを誘われたなー。客席のあちこちから笑い声が上がってた。観客全体で笑いを共有できるあの感じはスクリーン鑑賞ならではだよね。ヴァレンティナ・コルテーゼはもう随分なお歳なだけに演技に円熟味があって、このクセのあるベテラン女優を見事に演じきってて素晴らしかった。特に笑いをとるところで絶妙なアクセントになってたとおもう。
あと、トリュフォー自らが演じたフェラン監督の夢の内容がちょっと薄気味悪くてどきどきした。同じ夢を繰り返す見る感じとか、その度に先へ先へ進んでいくあの感じとか、夢見てるときの変な緊迫感おもいだす。
監督自らが役を演じるっていうのも、なかなか珍しくて面白いよね。
そんなこんなで映画人たちの、笑いあり涙ありの物語で興味深かった。映画に生きる彼らの生き様を鮮やかに切り取った「映画の映画」。人生が詰まってる感じがしたな。「映画こそ我が人生」っていう、映画への愛もね。
まさに「映画に愛をこめて」作られた作品だったのだろうとおもう。
三作品とも素晴らしい映画で感服。いきなりトリュフォーの偉大な才を見せつけられた初日だった。
amour
先週の金曜日は「男と女」「死刑台のエレベーター」の二本立てを観に行った。どちらも初見。7日中3日文芸坐へ通い5本映画を観るという1週間。ワオ。
1966年製作のフランス映画。互いに伴侶を失った子連れの男女が出会うお話。
名作との評判だったのでかなり期待して観たのだけど、率直に言うとあまりしっくりこなかった。
理由として挙げられるのが
・展開が急すぎる
・結末に物語の流れとの整合性がない
・不要と感じるシーンがいくつかあり、しかもそこが冗長
・男のシーンの切り替えで混乱することが多々
・音楽に惹かれない
という5点。最後のはおまけみたいなものだけど。上4つは個人的に大きいかな。
1点目に関しては映画だからと言ってしまえばそれまでなんだけど、子どももいる大人同士の恋愛で、しかも双方伴侶と死別しててそれなりに傷を引きずっているようなのに簡単に愛の告白まで至っちゃうところが疑問。男の方なんておもいきりがっついてるし。車中の時点で互いに惹かれあうものを感じていた上で衝動的に告白したのだとすれば理解できなくもないけれど、もう少し出会ってから告白までの間の感情の盛り上がりだとか不安定さみたいな描写があってもよかったのじゃないかとおもう。
2点目。これは本当に不満。女が亡くなった夫をおもいだし、情事にも冷めて白けた表情で別れたのになぜ男の腕に飛び込むエンディングなのかな。夫との記憶が蘇って自分の中では生きていると嘯くくだりの意味がないし支離滅裂だよねこれじゃあ。
3点目。男の仕事に関する描写が多すぎ。カーレースにあれだけ時間割くのならもう少し心理描写を入れてほしかった。
4点目。これは私の問題かもしれないけど連続性がなくて同じ男なのか一瞬わからない場面が何回かあった。あと愛人みたいな女が他にいたりしてよくわからないし男が無意味に軽く見える。
ざっと列記するとこんな感じ。
とにかく恋愛に焦点を絞って省くところは省いて、二人の感情の機微をもっと細やかに描いてもよかったのでは。
とはいえよかったとおもうところももちろんあった。
一番印象的だったのが、主役の女・アンヌを演じたアヌーク・エーメの表情の演技。まず溌溂とした笑顔が魅力的ですごく素敵。同性ながらみとれちゃった。それに情事中や情事中断後の白けた表情もリアル。「好きだって思って告白までしたけど、やっぱり前の人と比べちゃうし彼にはかなわない。好きだと思ったけどそうじゃなかった」みたいなあの感じは身につまされる。それに、愛してるなんて言われて舞い上がってその気になってがっついちゃう、なのにいざとなると相手が冷めちゃってその変化についていけない、結果急ぎすぎたのかと悔やむことになる、とかいう男側の立場も理解できる。
あとは海の情景の美しさだとか、大人と子ども、子ども同士の触れあいのシーンだとか。
冒頭からオープニングまでなんか本当に好き。
最後にひとつ、確認しておかないといけないとおもうのは、これはまだ二十にもなっていない今の自分が感じたことであるということ。
自分が大人になったときにこの映画を観たら、また違う感想を抱くのかもしれない。
今回理解できなかったことや納得できなかったことを、するようになるのかもしれない。
大人の恋愛って、私にはやっぱりまだ、わからない。
二作目、死刑台のエレベーター。1958年制作。
傑作として挙げられてるのをあちこちで見かけるのですごく観てみたかった作品のひとつ。新宿TSUTAYAにはDVDがないんだよねー。
あらすじの一部以外あんまり予備知識がなかったのだけど、逆に幸いした気がする。
とにかくすべてが予想の斜め上をいくもんだから予測不可能。一度狂いだした歯車があらぬ方向へ転がっていく。観ていてとにかく飽きなかった。始終手を握りしめてたくらい、どうなるんだろうっていう不安と緊張感でいっぱい。「完全犯罪に失敗する話」なんて一見単純なのに、個性的な登場人物たちと偶然によって絶妙にかき乱され、広がって膨張して複雑化して、とても一筋縄じゃいかない。だけど最終的にはひとつの場所に行き着く。無情なクライマックスへと一気に加速して集約していく。どんどん計画が狂って転落していくさまには疾走感すら感じて感嘆を禁じ得なかった。物語の展開、偶然と必然やその他いろんなものの重なり、巧妙に織り込まれた伏線が素晴らしくて、脚本が見事としか言いようがない。ブラボー。
前述のとおり、この映画はフランス映画の一大ジャンルである犯罪もの、地下室のメロディーと同じく「完全犯罪に失敗する話」なわけだけど、地下室のメロディーとはまた全然違う色を持ってるよね。
地下室のメロディーは、浅はかな青くさい若者が主人公で、その短慮さゆえに失敗して野望が崩れ去るさまが、虚しくも滑稽かつ象徴的に描き出されてた。恋愛は成功と失敗の鍵を握ってはいるものの、目的でもなければ動機でもない。
一方死刑台のエレベーターは、エリート階級の大人が主人公。切れ者で腕も確か。なのにひとつのミスから歯車が狂い、偶然も重なって失敗に至る。恋愛はすべての動機であり犯行の目的だし、恋人は共犯者で結局二人とも刑に処される。笑顔の二人が写る写真と、それが原因ですべてが明るみに出るラストがなんとも切なかった。不倫関係を写真に残したのも大きなミス。大人の痴情、愚かさ。恋愛の前では大人も形なしなのかもしれない。
あと強烈だったのがジュリアンの車盗んで人殺しまでしちゃった若いカップルね。とにかく行動がぶっとんでて刹那的で後先考えてなくて、いかにも若者らしい愚かしさが全開。観てる側としてはあまりの無鉄砲さに呆れるしかないほど。結局睡眠薬の致死量間違えて自殺に失敗して、男の子が写真取りに行った先で御用、なんてもはやハイセンスすぎるギャグ。とはいえ、展開を絶妙に引っかきまわす役どころは申し分なかったし物語に多重感与えてるよねこの二人。特に女の子が若さゆえの浅はかな感じを演技で存分に見せててよかった。元気っ子っぽい容姿がぴったり。
そしてなによりひとつ印象に残ったのが、この若い女の子もジュリアンと不倫したフロランス・カララも口にした台詞。
「あなたと離れたくない」。
どんな形であれ、これが愛で、この気持ちひとつなんだなーっておもう。
二人とも失墜してしまうけど、それでもその男と一緒に生きるのは、これなんだろな。
大人も子どもも関係なく。大人も、恋愛の前じゃやっぱり青くさい若者になってしまうのかな。
ちなみに途中までフロランスがジュリアンの手で殺されたカララ氏の夫人だとはわからなかった。つくづくいい脚本。
犯罪ものの映画にこれだけ恋愛の本質を絡めてあって、本当に物語に厚みが出て、多角的に楽しめた。スクリーンで観れてよかった。噂に違わぬ傑作。
あと、やっぱり、モノクロ映画っていいなア。
アランドロンと云う男
昨日は「地下室のメロディー」「冒険者たち」の二本立てを観に。
どちらも1960年代製作のフランス映画。1960年代はフランス映画の黄金期で、この時期作られた映画はほんとに名作揃い。この二作品も然り。
私はどちらも初見。地下室のメロディーの方は新宿TSUTAYAじゃDVDが見つからなかったし、冒険者たちの方は借りに行くタイミングが悪くてずっと見れずじまいだったので。
地下室のメロディーから上映がスタート。この作品はフランス映画界において一世を風靡した所謂「犯罪もの」なわけだけれども、私はこの手のジャンルの作品を観たことがなかったから上映前は正直ドキドキだった、ひとりだったしね。だけどいざ映画が始まってみるとのめり込んだ。決して不快ではない、しかし息詰まる緊張感、おもわず手を握りしめるような。何度も心臓が跳ねた。
話の筋を言ってしまえば遂行したはずの完全犯罪は崩壊してしまうのだけど、札束がプール一面に浮かぶラストは予想外で度肝を抜かれた。ある意味ギャグだよねこれ。観客の予想を裏切る、というよりはその斜め上を行く感じ。こちらが思い描いていた範疇を飛び越える感じ。脚本も演出も上手い。

そしてやはりこの映画の最大の魅力はアラン・ドロンの演技。とりわけエレベーターの中にたどり着くまでの一連のシーンには驚きを禁じ得なかった。通気孔を這って進むところやエレベーターの場面なんか本当に目が離せない。アラン・ドロンの身体能力の高さあってこそのあの一連のシーンだけど、撮影大変だったろうな。彼の体を張った演技に脱帽。拍手をしたい衝動に駆られた。
何よりこのアラン・ドロンという男、憎いほどかっこいい。顔立ちから全身に加え、表情にまで男性の色気なるものをスマートに身につけている感じ。ちょっとワイルドでくだけた様子がフランシスという若い青年の役柄にぴったりと合っている。顔立ちも、端正だけどそこはかとなく獰猛な香りをしのばせていて。
なんとなく誰かを彷彿とさせるのだけど、おもいだせないなー。
特に表情が印象的だったシーン。プールに札束の入ったバッグを入れたはいいがお金が浮き上がってくるそのさまを見つめるこの表情。札束と交互に映し出される演出がまたイカしてた。フランシスの自信、欲望、シャルルとの策謀そのものの崩壊が無表情にすら見えるこの表情に象徴的に表れているようにおもう。素晴らしい演技。
こうして私は、野心と自信と軽はずみな愚かさを持った若い男の儚い墜落を、固唾を呑んで見守ったのだ。
シャルル役のジャン・ギャバンもフランス映画界のスターだけあって貫禄の演技だった、さすが。
地下室のメロディー、文句なしに面白かった。映画史に燦然と輝く名作。
モノクロ映画というのがまたいい。
15分程度の休憩を挟み、次は冒険者たち。
2作続けて映画を観るのは初めてで、体力的に不安があったものの、終わってみれば両方観てよかったと心からおもった。1200円で2本も観れるなんて。ブラボー。
あらすじなんかは多少予備知識としてあったのだけど、これもまた予想のはるか斜め上。飛行機、自動車のエンジン、鉄屑細工のアート…それぞれが夢を抱きつつも挫折に至り、宝探しに行こうと盛り上がるロマンに溢れた前半から一変、こんなにつらくなる話だとは。レティシアの死にしろマヌーの死にしろ、なんだかとてつもなくショックでつらかった。作中でも漂う虚脱感というか虚無感が、終わってから一気にきてしまってすごい。
それからフランス映画に出てくる悪役って本当に悪人面していて怖い。そういう人物が登場すると必ず誰かが死んでしまうからハッピーエンドってあまりないよね。
そしてこの映画、何よりもまず映像がすごい。特にすごいとおもったのは海中に沈んだ飛行機の海藻が生え苔むしさらに白骨化した死体が操縦席にあるあのシーンと、それから、マヌーが銃で撃たれて死ぬシーン。レティシアの亡骸に潜水服かぶせて海に沈めるシーンも音楽と相まって印象的だった。
人間が撃たれるシーンは映画によくあるものだけど、ここまで生々しいのはなかなかないやも。本格的に恐怖感じたし体が震えた。アラン・ドロンの演技も圧巻。
映像ということでさらにひとつ。この海上の廃墟じみた要塞がすてき。全然違うけど、故郷の海に浮かぶ軍艦島(端島)をおもいだす。よりロマンを掻きたてるよね、こういう建築物は。
あと印象に残ったのはレティシア。
このジョアンナ・シムカスという女優、はまり役だったのでは。レティシアの性格と容貌がよく合ってる。
それから、レティシアに対するマヌーの恋心が物語に絶妙に絡んでいてよかった。淡いとすら言えるような恋。哀しい恋。若い男女の青春や友情を鮮やかに彩っていたようにおもう。ラストは泣かされたなー。マヌーが再びレティシアに会えたことを願ってやまない。
さらに付け加えて、興味深かったのがマヌーがコンゴに眠る宝物の話を聞きながら箸を使って日本料理を食べてるシーン。給仕をする芸妓さんの姿も映ってる。このあたり、いかにもフランスらしいとおもうんだよねー。
冒険者たち、これも素晴らしい作品だった。甘酸っぱい青春。ロマンを抱いて旅立った冒険。若者の特権とも言えるものが詰まった、鮮やかで哀しい映画。スクリーンで観れて本当によかった。
次は夏、陽と海が輝く青い季節に観たい。















































